てしかな、にしかな、

言わずもがなを言う

バナナマフィンと月

金木犀が散ってしまいました…今年はTwitterで見かけたモイストポプリたるものを作ってみたので、来月また金木犀の匂いが嗅げそうで「マンモスウレピー」です。

これはこないだの金木犀。落ちてもいい匂いなんて…どんなときも美しいとか、なんかね…そんな女性になりたいですね…(明確な意思を持て)

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今日何をしたかというと、「あ!今日って中秋の名月じゃん!」と先ほどなり、慌ててベランダから身を乗り出して月を見ていたら思いの外時間が経っていて、気づいたら満月のやつ、ベッドの上の窓から普通に顔を覗かせてくれる高さになりました。とても良い感じで感傷的なわたしがやってきて「一句詠んどこうや」と言い出したので、ひとりでバナナマフィン片手に俳句大会をすることにしました。ここからはいつもの私ではなく、感傷的な私がお届けしますね。

 

女の子というのは不思議なものです。男の子もたくさん面白いところがあると思うけれど、私は一応女の子なので、女の子の話をしますね。 「スパイスとお砂糖でできている」というのが言い当て妙で、甘くて時に酷で…でもよく考えたら、スパイスもお砂糖もどちらもさらさらとした軽い粉にすぎません。いつ風に飛ばされてもおかしくないようなものなんです。だから大きな、揺るぎないスープみたいな液体の中に溶け込んでしまえば消えてしまわずに済むんですね。女の子にとっての恋愛って、そんなものなのだと思います。

そのスープが本当に綺麗かどうかなんて外から見ないとわからないし、スープにとって自分の味はどこまで主要なものなのかは、素材ごときにはわかりません。全然おいしくないかもしれないし、最悪な味かもしれないけど、自分が美味しいはずだ!!と思えば、良いんです。そこにかけた時間と誇りがあれば良い。どんなところに溶け込んだって私の味は死なないし、あなたの味は死なない。だからわたしは死ぬまでに、いちばん自分のクセに合うスープに溶け込めたら、幸せです。

大切な人をつくるって、ほんとうに大きな勇気と傷を抱えることです。避けて当たり前。でも喉から手が出るくらいそばにいて欲しい人が現れるかもしれない。傷つくことへの恐れを凌駕するでかでか恋の登場です。ナイススープ!

……何がおいしさの秘訣かを考えたのですが、汁の味もさることながら、器がないと味わえないと思いました。それはやっぱり毎日の暖かい記憶と少しの苦しさと、その苦しさを背負った夜だと思いました。その会えない時間や、恋人が知らない苦しい時間や思いやりたちが、スープを受け止める素敵な器になると信じて、強く生きようと思います。欠けたところは金継ぎをすれば良い。でもビカビカ光る器じゃなくてもいい。それでは、金の代わりに、いつかのゆるやかな昼下がりに恋人にあたった柔らかい陽の光と、苦しい時に心から流れた涙と、それを支えた夜を溶かしてみたらいいんじゃないの、なんて粋なことを考えるわけだ。(急に正常に戻る)

でもほんとに、そういう触れられない柔らかいものと、少しの悲しさみたいなものが、形づくっていってくれてるんですよね。

中秋の名月を見ていたら、ふとよい詩が浮かんだので、こんなことを書きました。こんなセンチメンタルっぽいですけど、私はいま全然星3つスープに溶け込んでいますし、幸せな夜でした。それではおやすみなさい。

 

 

 

 

2021年 バナナマフィン片手大賞

君に当たる陽とこの水と夜を溶き 金繕いをしてできた詩(うた)

 

 

 

授業コメントにて「志望理由」

画面やキーボードを叩けば簡単に文字がうてる時代に、自分の手で、しっかりと私だけのフォントを紙に刻めるのはほくほく嬉しい。昔はよく鉛筆を握った手も、気づけばいつもスマホを握ってしまっている。「スマホを握るな」ではなく、「鉛筆を忘れるな」と思う。時代には抗わなくて良い。忘れないことは大切なんだ。何でも初心を忘れないことが大切だと伝えたくて、手で書くということをテーマにした自分の学科の会報誌を作った。自分がこさえたものを、違う人間が手に取るわけだ。自分の考えや言葉をモノに宿して伝えることの楽しさを知ったのは、この会報誌を作ったことがきっかけだった。


 私は京都の大学に通っていたが、生まれ育ったのは九州の大分県宇佐市という何もない田舎だ。洒落た商業施設がない。車もそれほど走ってない。吉幾三ではない。そんな大分と比べると、古き良き街・京都はとても都会だなと感じた。友達に会いによく東京に行っていたが、もうこれは別の国だなと思っていた。都会に行けば行くほど田舎者だと笑われるかもしれないな、いや、田舎者で悪いか!私は住みよいところでジッとしている人の何倍も、色んな人の暮らしを見て、生きた言葉を聞いて、美味しいものを食べ、珍しいものは何でもかんでも嗅いで触って生きてきた。確かに都会は便利で新しいモノに溢れていて、田舎は不便で古いモノが多い。でもその不便の中にあるコミュニケーションの温かさを知らずに生きているのなら、私はそれを笑ってやりたいと思うよ。

都会だって良いところはたくさんある。東京が好きだからわかるよ。でもビルのないところで見る夕焼けのオレンジを知っているか?稲を摘み取った後の匂いは?お散歩しているおばちゃんの謎の「おかえり」は?商店街のコロッケの安さは?都会にあって田舎にないものは、自然で、質素で、温かいんだ。どこか冷たい現代の忙しない街で、失われた温かい心豊かなモノたちが絶対にある。
だから私は将来、不便や手間という名にされ、取り払われてしまったコミュニケーションの大切さや古いモノの尊さを、会報誌だけじゃなくて色んなモノに込めて社会に伝えることができる人間になりたいと思った。色んな場所で色んな人、モノを見てきた私だけの新しい視点がたくさんあるはずなのだ。あると信じてるよ。この学科で、色んな角度から物事を捉える力をつけて、そして現代の社会において私はどう生き、何を生み出せばいいのかを考え抜きたい。お金を稼げる効率的なだけの社会ではなく、人のために不便や手間を厭わない社会を作るために、失われつつあるモノや暮らしにある愛おしさを現代に生きる人に思い起こさせる術を学びたい。学科のみんながテクノロジーを見据えた未来を、前を、まっすぐに見ている中でさえ私は、1人だけでも後ろを向いて進んでやりたいのだ。

 

いつか私を救ってくれたみんなへ、私がこれからつくる、あってもなくてもいいもの中に、くだらないものの中に、とことん逃げ込んで欲しい。シェルターになって私が守るよ。遠くから出てきて東京で暮らしているみんなも、嫌なことがあったみんなも、この家に来れば良い。みんなが平凡でちょっぴり特別な、そんな幸せな毎日を過ごせるように願っている。遍くみんなに覆い被さって生活を背負う、それは孤独だと岡本太郎は言うけれど、私は闘うよ。目に見えないもの全てが味方をしてくれているような、できっこないこともできてしまう心地がするような、そんな心をつくるから、待っていてほしい。それが私の誰にも譲れない、筋だ。

 

 東京での4年間は、暮らしも、仕事も、もちろん人間もガラリと変わる。新しさや便利に囲まれる。でもその中に古さや手間があったことを忘れない。初心を忘れない。私を作ってきた暮らしを忘れない。年の瀬に一生懸命みんなに書いた年賀状も、ただいまといってきますの代わりにあげたお線香も、家族が揃うまで待って食べたごはんも、ぜんぶ、ぜんぶ愛おしいと思う。当たり前なことなど何ひとつなかった。
この気持ちを忘れるまい。

 もしこの拙い必死な文章を読んでくれたあなたの心の中に、何か少しだけでも忘れかけていた愛おしさや温もりが蘇ったなら、私は何よりも嬉しい。嬉しいし、その温もりを忘れないでほしい。その忘れかけていた愛おしさこそが、私たちの暮らしを、心を、社会を、豊かに育むモノであるから。

授業コメントにて「私の歴史」

「歴史というものは、遠くから、時間が経った後から顧みて初めて見えてくるものだ。今私たちが生きている生活も、未来から見れば立派な歴史である。」(富松先生『現代社会産業論』より一部抜粋)と論文に書きたくなるような第二回授業だった。私は今年で20歳になるけれども、20の節目にて小さい頃からの私の歴史を振り返ろうと思う。『歴史』(鶴田著)をしたためようという所存である。

 


私は九州の田舎にある小さな産婦人科で、雨の降る金曜日の昼下がりに生まれた。あまりに元気よくお腹を蹴るので男の子だと思って「竜大(タツヒロ)」というなんとも勇ましい名前までつけていたのに、「元気な女の子ですよ!!?」と言われた両親の顔が見たい。『桃李成蹊』(桃の木はものを言うわけではなく、美しい花と芳しい香りで人を集める)という故事から「桃子」という名前をもらった。男まさりで桃子らしくないので人前で名前は言わないけど、桃は魔除けの効果もあるから、私の秘密兵器である。

ものの始まりというものは大切だからこんなに詳しく書いたけれど、今からは物心ついてから小学校くらいの頃の(小学生までくらいの幼少期なら『歴史』として捉えられるなと思った)私の「歴史的事件」にスポットを当てたい。数々の事件があったが、文字数を考えて3つくらい書こうと思う。

 


① チョコレートとの出逢い

3歳の誕生日の日、起きると目の前に母の顔があった。「3歳になったから、チョコレートを食べてもいいよ」という。ポリフェノールやカフェインは小さい子に良くないと知った母からの制約が解かれた瞬間である。なんと、あの魅惑の食べ物チョコレートが食べられるだと。今でも忘れない、ガーナの板チョコをスーパーに買いに行った。あの感覚はそうだな、ハタチになって初めてコンビニにお酒を買いにいくような気持ちだった。いいの?ほんとに?食べちゃうよ??にまにま、という具合。ちなみに初チョコは頬が溶けるくらい甘くて美味しかった。その後ほぼ毎日チョコを食べ荒らし、上の歯がほとんど虫歯になって、その歯の有様が七五三のデカデカ写真にしっかり残っているというオチつき。

初めてのものはいつも新鮮だったけど、チョコレートが1番衝撃的だったなあ。回転寿司も良かった。今でも寿司のトリコ。寿司が好きな自分が、小さい頃と何も変わっていなくて、好きで、安心する。

 

 

 

姉の結婚

小学校の時、1番上の姉ちゃんが結婚した。大きいことだけど、でもそれは事件じゃない。事件なのは「結婚した後のことを親が私に教えていなかった」ということ。

姉が結婚するということで、私は父にドレスの貸衣装を着せてもらい、出された豪華なサーモンのマリネをるんるんで食べていた。(ちなみにこれが初マリネ)宴も佳境に差し掛かり式典にも飽きてきた頃、姉ちゃんが何やら手紙を読み出した。なんか様子がおかしいなと思った。めでたい席なのになんでみんな泣いているのかわからず、私はできる限り全力で円卓の人たちを励ました。桃子ちゃんは強い子だとみんなはより一層泣き始め、全く訳が分からなかったのだが、帰りの車にて全ての真相が判明する。「今日美穂(姉)いつ帰ってくるの?」と母に聞くと、「もう美穂とは一緒に暮らせんよ、別々やわ。」と言う。なに?今日から別々?どういうこと?訳が分からなくなり兄に聞くと、「美穂はもう鶴田じゃなくなった」「結婚すると家を出ていかないといけない」「昨日が我が家でご飯を食べる最後の日だった」とか言っている。訳が分からず、ただもう一緒に暮らせないというあまりに残酷すぎる事実に驚き、悲しみ、泣いた。あれほどまでに泣いたことがあろうか、いやない。(漢文にしたいくらいよほんとに)20年間の中で1番泣いたと思う。本当に食わず寝ず一晩中泣いた。当たり前など無いと、その時に知った。その日の晩御飯は鰻だったのに、家族の誰もが美味しそうに食べていなかった。あんなに嫌な思い出と一緒に思い出される鰻も可哀想だな。私は最近になって克服したものの、それまで鰻が嫌いだった。シクシクなく私を横目に、涙を浮かべた父が「もう会えない訳じゃねえから、な。」と、どこも見ていないような目をして鰻に山椒をかけていたのをハッキリと覚えている。あの鼻につく山椒の香りが、今では芳しい。

 

 

 

③ 身内とのお別れ

タイトルから重いけど、やっぱり身内の死というのは大きい。

私の家は両親が共働きだったから、0〜3歳まで母方の祖母に育ててもらっていた。ばあちゃんのおかげでひらがなもカタカナもアルファベットも、少しだけ早く使えるようになった。トルコ行進曲に乗せて赤いボールがぐるぐる回る右脳開発テレビも一緒に見た。この世のいろんな不思議なことは、ばあちゃんに聞けば全てわかった。一緒に絵画教室に通い始めた。ばあちゃんは油絵を描く人だった。いつも桜の絵を描いていた。そんなばあちゃんが、私が4歳になる頃に腰痛がひどくなって通院を始めた。私は元気になる一方だったから、幼稚園に通い始めた。ばあちゃんの腰痛は酷くなる一方で、もう絵画教室にも通えなくなり、教室には未完成の桜の絵がしまわれていた。小学校に上がり、3年生になった頃、ある日急に大きい病院に連れて行かれた。ばあちゃんがそこで腰の治療をしているのは知っていたから、いつものお見舞いだと思ってついて行った。県庁所在地にある大きな病院で、消毒の嫌な匂いがした。診察室よりひとまわり小さい部屋に通され、私はそこにあった足ツボマットで看護師さんと遊んでもらっていたが、ふと見上げると母が泣きそうになっていた。幼心ながらただならぬ雰囲気を察知し、「ああ、ばあちゃんはもう長く無いのかもしれない。」と悟った。祖母は膵臓癌だった。私は何も知らないフリをした。知らない方がいいことだってあるよなと、病院のホットスナック自販機でポテトを買ってもらい、漫画を読んでくるからとひとりで談話室に行って、泣いた。母に見せてはいけない涙だと思った。ばあちゃんは1年くらい病気と闘った。髪が抜け、痩せて、血管が浮き出た手にその血管と同じくらい太い点滴の管が刺さっていた。その手をいつも私は握り、じっと規則正しく上下に動く胸を見ていた。見るので精一杯だったから。

秋になったある日、学校終わりにばあちゃんのところに行ったら、母が「お母さん、もしお母さんが死んでしまったらどうしたらいいんかえ」と言っていた。「家の近くの葬儀場を予約しな」と、微かな声で言っていた。どこまでもタフだな。そして「桃子は私が育てたきねえ、なんも心配しちょらん、私の子。」と言った。もう死期を悟っているようで悔しかった。こんなに頑張って闘っているのに報われないものがあるのか。そんな無慈悲なことがあってたまるかよ。でも生きようとする力と同じくらいの力で苦しさがやってくるのが病気なのだと、寿命というものに人は抗えないことを知った。

ばあちゃんのお葬式で私は親族代表挨拶をした。顔が涙でぐちゃぐちゃになりながら、嗚咽を漏らしながらA4の原稿用紙を読んだ。『ばあちゃんに教えてもらったこと、忘れないよ。向こうでも元気に車に乗って、絵を描いて暮らしてください。』私はめぐり巡って美大生になったよ。ばあちゃんが教えてくれた美しいものを私は忘れません。流れているこの血の中に、きっと刻み込まれているから。桜の絵、私が完成させよう。


あ、3つじゃ足りないなあ。1200文字では到底書きつくせない歴史が蘇ってきた。

私あんなに泣き虫だったのに、いま大都会・東京で一人暮らしをしている。いろんな初めてを乗り越えて、節目に立ち会って、別れを乗り越えている。いろんな歴史が鶴田桃子を作っているし、歴史が見えてくるくらい生きたんだなあ。

当たり前のように明日がやってくる今日は、なんて豊かで有難いものであろうか。明日、親に電話しよう。お腹が空いたから、バナナタルトを食べよう。綺麗に、ひとかけらも残さずに。そして、そのクリームを隈なく掬うように、忘れていた記憶を思い出して反芻しよう。お皿に残ったクリームを、完璧に掬い取ることはできないけど。その残ったクリームも、おまえをつくっていたものだから。

その中に今日を見つけられるように、生きる。

金曜日が待ちどおしい。

 

授業コメントにて「太陽の塔」

太陽の塔が好きだ。白い艶やかな肌に血のような赤の稲光を走らせ、私たちを抱きしめてくれるように堂々とそびえたつ太陽の塔が。

去年まで京都で学生生活をしていた私は、あの塔に会いに何度も阪急電車に揺られた。受験で辛いとき、何も上手く行かないとき、授業に遅刻したとき、太陽の塔を見ているだけでどうでも良くなれた。あんな大芸術の前では、私の悩みなど、本当にちっぽけなものに過ぎないと思えるのだ。

「ひろがることによって逆に根にかえって行く」。これは1967年に岡本太郎太陽の塔のアイデアスケッチに書いてあったことだ。今日の授業を聞いていた私の心には、太陽の塔岡本太郎の顔が浮かんでいた。自分が食べているものも、見えているものの色・形も、そして自分自身にも、歴史というものを持っている。全てのものが古代から脈々と進化した生き物たちの産物だ。そして私たちがそういった産物の中で生きているということはどれだけ進化したことなのかを考える授業なら、生命の樹のほんの枝先にいる私たちが、太い幹を顧みて根にかえっていくことそのものだと思ったからである。

 


1970年、終戦の靄がまだ綺麗に晴れ渡らない時代。もうあんな悲惨な争いは繰り返してはならないと人類の進歩・調和を全世界に伝える大阪万博にて、岡本太郎は進歩に中指をたてた。先進技術を自慢することも未来を礼賛することもなかった。世界中が前を向く中で彼はひとり過去を、人間の根源のはらわたを見ていた。穏やかなところから突出したものを元に戻すことが調和ではなく、突出したもの同士がぶつかって波が引いていくことが調和だと信じていたから、未来に過去をぶつけることで生まれる本当の調和が見たかったのだと思う。私は本当の調和の跡を目の当たりにした。塔の中で噴き上げる命のエネルギー、そして天井まで突き抜ける生命の樹。足のすくむようなパワーはもはや恐ろしさまであった。太陽、血、顔、そしてホモ・サピエンスに進化するまでの過程の生物たち。これらは全ての人類に共通する根源であった。世界中の人類の「なんだこれは!?」をかっさらって全てを根にかえらせたそのスケールに言葉もいらなかった。言語も常識も超越する力があそこにはある。芸術とはこれかと叩きのめされた。科学でなんでも解明される神聖な中核のなくなった世界でも、「ベラボー」な司祭は今もどっしりと大阪に、そして私の中にいる。

「ひろがること」は、決して悪いことではない。広がれば広がるほどに根源は偉大になる。新しいものが増えれば増えるほど、古いものが尊くなるように。

今日は初めての大学の授業だった。これから4年間、私たちはどんどん新しいものを取り込んで進化していく。成長していく。人は変わらないと生きてはいけないのだ。しかしこれまでの生活を忘れてはいけない。京都での生活、太陽の塔、なんで今ここにいるのか、そのそもそもの初心を忘れてはいけない。「自分のこれまで」は、「かえれる根」だと思うから。その根がどんどんと太く強くなって行く様を、葉の先からいつまでも眺めていたい。

「ベラボーでありながら毅然として突っ立っている、そういうものでありたい」。

なつかしの鶏団子鍋

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最近作ったお気に入りのパロディポスター。

引越しでヘバった人に「元気だしな!」と、思い出の水炊きを作るわたし。カメラに緊張していない、レアな顔。

2枚目はなつかしい、事あるごとに作られた鶏団子。
「今日は水炊きで!」と言われた日は宿題を急いで済ませて父の帰りを待った。歯科矯正をしたとき金具が痛すぎて泣きながら鶏団子を噛んだ。インフルエンザの時に「これなら食欲湧くだろ」と鍋くらいの体温で頬張った。そんな思い出をぐるぐる再生しては、大人になったなとしみじみする。
鍋の真髄は完成を待つ間の時間にあると、私は思うのです。

「うま!鶏団子たくさん食べれる!うれし〜」とハフハフ食べてくれた思い出も、いい出汁として鶏団子に入っていった。大人になるにつれて料理が美味しくなるのは、色んな思い出の出汁を吸っているからなのかもな、とも、思うのです。
おいしいものをこれからも、たくさん食べよう。

 

 

ジャンクフード持ってこい!

鳩サブレの残骸を食べながら東京のおうちでひとりミルクティーを飲んでいたら、なんだか心がザワザワして来たので、そろそろ文字にして落ち着けようか!とここに書いている。

まったく、私の私生活は側から見たら謎だらけだね。あちらこちらを転々と。でも楽しいよ。読んでくれてるあなたはどこにいるんだろうか!そしてわざわざ文字を追ってくれてるその手間、愛おしいと思っているよ……

 

私にとって2020年後半〜2021年前半は激動だった。ここにまだハッキリとは書かないんだけれど(いずれ分かるんだけど)、まあ何、簡単に言うと「新旧入れ替え合戦」みたいな感じで、色んなもの・人と離れて、色んなものを捨てて、新しいことを必死になって作って、掴んだ期間だった。身体を壊さなかったのが奇跡的。よかった〜。20歳になってからすぐの激動だったけど、大人になったし、一皮剥けたのか?と思っている。良いこと。これまでとは全く違う、いわば人生!!2期に突入しているというハナシ……

2期!といえども、これまでの私ってどんな人やと思われてるのか自分では全くわからないな。ほんとはそんなん気にせんでいいんだろうけど、ふと気になる。仲良い後輩と初めて京都で遊んだ時「先輩もコンビニとかでご飯買って食べたりするんですか?!」って言われてびっくりした。どんなイメージやねんな!買うわ!マックも食べるわ!でもビックマックはこの前初めて味見しました。芋ねえちゃんだからな。あたい流行には乗れないけど、ばりばりのパンピーなんですよ。自分に貼られてる間違ったイメージを片っ端から叩きのめしてやる2021!

ありがとう教えてくれて!後輩!怒ってないから安心してな!よしよし

 

話は戻るけど、「新旧入れ替え」って素敵な響きで、新しいことってワクワクするし楽しいけど、「旧」の部分を大切にしたいな、忘れないようにしないとなっていうのが私のモットーです。

例えば、今は東京に住んでるけど、大分や京都での生活とか、友達とか、なんで大学に行かせてもらってたんだっけ…?というそもそもの根源とか、事を始めるにあたっての初心とか、そういうもの。

「人は変わらないと生きていけないし、その変化こそが成長だからね」と、教えてくれた教授がいた。それは確かにそうだな!と思う。

でも「これまでを忘れない力」は大切だと思う。外見や環境や考え方は変わっても、初心を覚えていればいつでも立ち返ることができるもんね。「広がれば広がるほど、逆に根に返っていく」って岡本太郎も言ってたから、間違いない。

「これまでを忘れない力」を持つ人は、「返れる根」を持っている人だと思うんだな!

 

そんな話はさておきね、鶴田は東京で暮らしているんすよ。びっくりするよね、何やってんの?ってな。私もよくわかってない。

ただ言いたいのは、私は自分の人生を考えて東京に来たのであって、他の誰のためでもないよ。自分のためにやってきました。東京がすきだからね。大分の友達は確かにたくさんいるんだけど、東京というところがすきだな〜と思う。畑の横に住んでるけど。

もちろん一人暮らしで、2階建てのおうちの2階に。割と広めで快適なほう。要するに引っ越したんですよね〜。引っ越さないといけなくなって。アッこれが上京ってやつかよ!(やかましいぞ)物が多くて大変で、どの段ボールに何が入ってるか全然分からなくて、挙げ句の果てにはサカイの人が「ラスト一箱!」ってダンボールに書いてた。分かるかよ。何入れたんだよ!これでもサカイに荷造りしてもらった分際です!

あ、大学の新一年生のみんなも引っ越しシーズンがやって来るね!新しい生活、頑張ってね…!と思っている。死にそうになったら、どうやって自分で自分のご機嫌を取れるのかを考えてね。私は去年、何もかも嫌になってコスモス畑に行った。土に塗れて泥臭くなりながら、田舎の真っ暗な夜道を友達と1時間歩いて帰ったら、もう悩み事なんかどうでも良くなった。その話も今度文字に起こそうかな。

とりあえず今日はこのへんにしておいて、今からwiiの卓球で遊ぶことにした。

とりあえず言いたかったのは、どうでもいいけど私に、私のための人生2期が始まったということと、2期でも私は変わらず元気なしいたけ坊やであるということ、みんな春から初心忘れずに頑張って生きようなということ、そして「でかでかバーガー持ってこいや!」です。

 

また新しく、そしてそのままの私でご挨拶できたらなと思ってます。お前誰やねんな!ということで春からもよろしくお願いいたします。

 

私の、良いキャンプ

 

こんにちは、つるだです。

 

先月、キャンプに行ったことを書かなきゃと思ってずっと書けてなかったから、日記がてら書こうと思う。

 

キャンプに行きたーい!とねだったのは、今年の5月くらいだったかな、何故かとてつもなくキャンプに行きたくなり、唐突にキャンプ場を探し出したのだった。

川の冷たい水!スイカ!BBQ!花火!ぼくらの夏!

 

キャンプというのはまず、人員を集めないといけないんだけど、人選が大切だ。まず、川に入るから、もしもの時を考えて泳げる人・または冷静な判断をする人がいないといけないし、スイカやら肉やら持っていくのに力持ちの人もいるし、いちばん大切なのは、虫が平気な人だ。虫や蟹を平気で触れる人が絶対に要る。そして乗り物に乗るなら、だいたい偶数が良い。

と、いうことで、もう6年くらいの付き合いになる輩、カミさん(冷静・頭脳)・和気(虫平気・残飯処理)・パスタ(力持ち・残飯処理・)・わたし(野性)で行くことにした。我ながらなかなかいい人選だ。うんうん

(私のイツメンとしては、東京でよく遊ぶ、「誰も大事にしないから誰からも大事にされない御曹司」がいるのだが、ケチなのに虫も触れないので除去した。秋吉は実家でのんびり。)

※これは愛のある注釈です

 

京都の日吉という大分くらいの田舎の方のキャンプ場を予約した。

電車で行ったけど、大荷物だったから、暑くて大変だった。御曹司(車)を連れてこなかったことを少し後悔したけど、山の中は静かでいいところだった。のどかな風景。

これは日吉の、のどかな駅。(重要指名手配犯?)

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バスが出ていると書いてあったけど、どのバスに乗ればいいのか分からず困っていたら、バスの運転手が行き方を教えてくれた。のどかな所の人はみんな優しいなあ。うれしいうれしい。

 

キャンプ場に電話すると送迎バスがやって来てくれた。中は、なかなかに年季の入ったにおいがして、あちこち車のパーツが外れていた。おいおい大丈夫かよ。車ってもつな〜

 

 

着いたのはのどかな村みたいなところ。川が側で流れるコテージだ。サワガニがいるらしい。和気にとってもらおう。

 

みんな服の色が違って良いね。YouTuber?

 

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着いてからすぐ動きやすい服に着替えて、横の川に入った。

これはしっかり蚊の対策をする男たち。窓にすなよ

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川は最高に冷たい……!ということで、スイカも川で冷やしておくことにした。オツな感じ。

小川だったがとても水が綺麗だった!すごい!蛍もでるわいな

iPhoneで水中撮影。これはiPhoneもすごいよね。

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上流だから、石も角ばっている。まだまだ若い石だ。時が経って下流に行くほど丸くなるのは、人間と同じだな……(石で語るな)

 

石を返してサワガニを探していたのだが、水があまり来ないような岸にいることと、私はめちゃめちゃ蟹の家を見つけるのがうまいことがわかった。私が蟹のありかを探し当て、それを和気が取るという生業を成した。チーム蟹。(私は団体行動が苦手なのにすぐにチーム名をつけます。)

私にも特技ができた。いつか身を助けるかもしれない。

これはサワガニを探す、チーム・マッシュヘアー

同じ染髪剤をはんぶんこして染めたもんだから、まるで同じ髪である。お恥ずかしい。

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(私はとても高校の体操服が好き。かっこいい)

 


これは蟹を見つけられなかった者たちに捕らえられた、ケロス。(名付け親・パスタ)f:id:kiramekinonaka:20200821021051j:image

 

ケロスをずっと見守る親ス

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さて、ひととおり川で遊んだけど、我々は重大なことを忘れていた。それは、BBQの火。

なんと売店にはチャッカマンのみ。火は各自で起こせということよね、そうだそれがキャンプだな〜!と、いうことで、和気と私(チーム・蟹)は闇雲にティッシュを燃やし始める原始的30分間の始まり。椎名林檎もびっくりだわ

 

モクモクと舞い上がるティッシュの灰の中、竹を集める和気・火を煽る私、見守るカミさん・パスタ(チーム・ケロス)。

最後は序盤の竹が良かったのかやっとこさ火が付き、チーム蟹は至極感動した。これが文明や!!

 

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さあ、お待ちかねの肉。私は野性担当だったけど、兼肉担当!肉を両親が送ってくれた。ありがとうね〜美味しかったで〜す

私とカミさんはもう成人だから、檸檬堂・ほろよいで乾杯!いいね〜これがBBQ。ちなみに、焼肉のタレは、私調べでは「プルコギヤン」っていうやつがいちばんおいしい。

おにぎりは、朝起きて、頑張って握った。ゆかりと、おかかと、しろ。みんな、「ゆかり別に好きじゃないんだよね」とか言ってたのに、ゆかりうまいうまいとみんなこぞってゆかりを平らげた。なんだよ。今更ゆかりを好きになったって、ずっと好きだったのは私だ。まあいいけど。おかかもぜーんぶおいしかった。

 

外で食べる食べ物ってなんでおいしいんだろうね、お弁当とか、サンドイッチもそうだけど、外の空気と食べるだけで格別おいしい。

「外の空気がいちばんのおかず」と、この時の写真と一緒にTwitterに書いたけど、それはそういうことです。空気がおいしいと、なんでもおいしい。おいしいはうれしい。

 

この私は空気を食べている。ワッシワッシ

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さあさあおいしいご飯を食べたらお風呂に入って、花火をしなきゃね。

私は実家でもどこでも、花火をするときは主にカメラで写真を撮る。花火の写真は最高に楽しい。こちらの思うように花火は動いてくれないのが、楽しい。いくつになっても、花火をする時の人間の目は、花火が反射するからってのもあるけど、キラキラしているなあと思う。頭に「綺麗」という文字が浮かんだ時の人の表情は、とても穏やかで、うれしい。(すぐにうれしくなります)

 

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私はカメラを持っているから写真には入れないけど、実はいつも何本かは楽しんでいる。花火は小さいころから、家族が集まった時にしか買ってもらえなかったから、私にとって「団欒」の象徴のひとつでもある。花火があると、やはりうれしいし、「みんなでやった」という実感が残る。鼻にくる火薬のにおいも好きだ。

 

結局この日は、スイカを食べ忘れ、疲れ果ててみんな寝てしまったのだった。でも、川で遊んで、お肉を食べ、花火をするというのは、小さい頃に戻ったみたいな心地がして、とても楽しかった。石ころひとつが遊具だった頃の心がすこしだけ戻ったような気がした。

 

私は、「みんなが1と感じることを10と感じるから大袈裟だな」と言われたことがある。もしかしたら、この日記も、「川の水が冷たくて嬉しい?そんな大袈裟な!」となる人はなるのかもしれないな、と思う。でもこのキャンプで、その「残りの9」が、どれほど心に潤いを与えるか、生活を楽しくするかを知らないのは愚かでもあるなと思えるようになった。

水が冷たいことにいちいち感動しようが、蟹が見つけられたのが嬉しかろうが、私がいいなら、いいのよ。みんなが好きなことを嫌いでも、みんなが好きなことが好きでも、いいのよ。(これは星野源が教えてくれた)私はこのキャンプが楽しかった。じゃあそれでいいね。

 

こんな時間まで日記を書くと思わなかったけど、これが私のキャンプの日記です。とっても時間を使ったけど、私がいいので、いいです。みんなもキャンプに行ってみてくださ〜い!◎