てしかな、にしかな、

言わずもがなを言う

授業コメントにて「私の歴史」

「歴史というものは、遠くから、時間が経った後から顧みて初めて見えてくるものだ。今私たちが生きている生活も、未来から見れば立派な歴史である。」(富松先生『現代社会産業論』より一部抜粋)と論文に書きたくなるような第二回授業だった。私は今年で20歳になるけれども、20の節目にて小さい頃からの私の歴史を振り返ろうと思う。『歴史』(鶴田著)をしたためようという所存である。

 


私は九州の田舎にある小さな産婦人科で、雨の降る金曜日の昼下がりに生まれた。あまりに元気よくお腹を蹴るので男の子だと思って「竜大(タツヒロ)」というなんとも勇ましい名前までつけていたのに、「元気な女の子ですよ!!?」と言われた両親の顔が見たい。『桃李成蹊』(桃の木はものを言うわけではなく、美しい花と芳しい香りで人を集める)という故事から「桃子」という名前をもらった。男まさりで桃子らしくないので人前で名前は言わないけど、桃は魔除けの効果もあるから、私の秘密兵器である。

ものの始まりというものは大切だからこんなに詳しく書いたけれど、今からは物心ついてから小学校くらいの頃の(小学生までくらいの幼少期なら『歴史』として捉えられるなと思った)私の「歴史的事件」にスポットを当てたい。数々の事件があったが、文字数を考えて3つくらい書こうと思う。

 


① チョコレートとの出逢い

3歳の誕生日の日、起きると目の前に母の顔があった。「3歳になったから、チョコレートを食べてもいいよ」という。ポリフェノールやカフェインは小さい子に良くないと知った母からの制約が解かれた瞬間である。なんと、あの魅惑の食べ物チョコレートが食べられるだと。今でも忘れない、ガーナの板チョコをスーパーに買いに行った。あの感覚はそうだな、ハタチになって初めてコンビニにお酒を買いにいくような気持ちだった。いいの?ほんとに?食べちゃうよ??にまにま、という具合。ちなみに初チョコは頬が溶けるくらい甘くて美味しかった。その後ほぼ毎日チョコを食べ荒らし、上の歯がほとんど虫歯になって、その歯の有様が七五三のデカデカ写真にしっかり残っているというオチつき。

初めてのものはいつも新鮮だったけど、チョコレートが1番衝撃的だったなあ。回転寿司も良かった。今でも寿司のトリコ。寿司が好きな自分が、小さい頃と何も変わっていなくて、好きで、安心する。

 

 

 

姉の結婚

小学校の時、1番上の姉ちゃんが結婚した。大きいことだけど、でもそれは事件じゃない。事件なのは「結婚した後のことを親が私に教えていなかった」ということ。

姉が結婚するということで、私は父にドレスの貸衣装を着せてもらい、出された豪華なサーモンのマリネをるんるんで食べていた。(ちなみにこれが初マリネ)宴も佳境に差し掛かり式典にも飽きてきた頃、姉ちゃんが何やら手紙を読み出した。なんか様子がおかしいなと思った。めでたい席なのになんでみんな泣いているのかわからず、私はできる限り全力で円卓の人たちを励ました。桃子ちゃんは強い子だとみんなはより一層泣き始め、全く訳が分からなかったのだが、帰りの車にて全ての真相が判明する。「今日美穂(姉)いつ帰ってくるの?」と母に聞くと、「もう美穂とは一緒に暮らせんよ、別々やわ。」と言う。なに?今日から別々?どういうこと?訳が分からなくなり兄に聞くと、「美穂はもう鶴田じゃなくなった」「結婚すると家を出ていかないといけない」「昨日が我が家でご飯を食べる最後の日だった」とか言っている。訳が分からず、ただもう一緒に暮らせないというあまりに残酷すぎる事実に驚き、悲しみ、泣いた。あれほどまでに泣いたことがあろうか、いやない。(漢文にしたいくらいよほんとに)20年間の中で1番泣いたと思う。本当に食わず寝ず一晩中泣いた。当たり前など無いと、その時に知った。その日の晩御飯は鰻だったのに、家族の誰もが美味しそうに食べていなかった。あんなに嫌な思い出と一緒に思い出される鰻も可哀想だな。私は最近になって克服したものの、それまで鰻が嫌いだった。シクシクなく私を横目に、涙を浮かべた父が「もう会えない訳じゃねえから、な。」と、どこも見ていないような目をして鰻に山椒をかけていたのをハッキリと覚えている。あの鼻につく山椒の香りが、今では芳しい。

 

 

 

③ 身内とのお別れ

タイトルから重いけど、やっぱり身内の死というのは大きい。

私の家は両親が共働きだったから、0〜3歳まで母方の祖母に育ててもらっていた。ばあちゃんのおかげでひらがなもカタカナもアルファベットも、少しだけ早く使えるようになった。トルコ行進曲に乗せて赤いボールがぐるぐる回る右脳開発テレビも一緒に見た。この世のいろんな不思議なことは、ばあちゃんに聞けば全てわかった。一緒に絵画教室に通い始めた。ばあちゃんは油絵を描く人だった。いつも桜の絵を描いていた。そんなばあちゃんが、私が4歳になる頃に腰痛がひどくなって通院を始めた。私は元気になる一方だったから、幼稚園に通い始めた。ばあちゃんの腰痛は酷くなる一方で、もう絵画教室にも通えなくなり、教室には未完成の桜の絵がしまわれていた。小学校に上がり、3年生になった頃、ある日急に大きい病院に連れて行かれた。ばあちゃんがそこで腰の治療をしているのは知っていたから、いつものお見舞いだと思ってついて行った。県庁所在地にある大きな病院で、消毒の嫌な匂いがした。診察室よりひとまわり小さい部屋に通され、私はそこにあった足ツボマットで看護師さんと遊んでもらっていたが、ふと見上げると母が泣きそうになっていた。幼心ながらただならぬ雰囲気を察知し、「ああ、ばあちゃんはもう長く無いのかもしれない。」と悟った。祖母は膵臓癌だった。私は何も知らないフリをした。知らない方がいいことだってあるよなと、病院のホットスナック自販機でポテトを買ってもらい、漫画を読んでくるからとひとりで談話室に行って、泣いた。母に見せてはいけない涙だと思った。ばあちゃんは1年くらい病気と闘った。髪が抜け、痩せて、血管が浮き出た手にその血管と同じくらい太い点滴の管が刺さっていた。その手をいつも私は握り、じっと規則正しく上下に動く胸を見ていた。見るので精一杯だったから。

秋になったある日、学校終わりにばあちゃんのところに行ったら、母が「お母さん、もしお母さんが死んでしまったらどうしたらいいんかえ」と言っていた。「家の近くの葬儀場を予約しな」と、微かな声で言っていた。どこまでもタフだな。そして「桃子は私が育てたきねえ、なんも心配しちょらん、私の子。」と言った。もう死期を悟っているようで悔しかった。こんなに頑張って闘っているのに報われないものがあるのか。そんな無慈悲なことがあってたまるかよ。でも生きようとする力と同じくらいの力で苦しさがやってくるのが病気なのだと、寿命というものに人は抗えないことを知った。

ばあちゃんのお葬式で私は親族代表挨拶をした。顔が涙でぐちゃぐちゃになりながら、嗚咽を漏らしながらA4の原稿用紙を読んだ。『ばあちゃんに教えてもらったこと、忘れないよ。向こうでも元気に車に乗って、絵を描いて暮らしてください。』私はめぐり巡って美大生になったよ。ばあちゃんが教えてくれた美しいものを私は忘れません。流れているこの血の中に、きっと刻み込まれているから。桜の絵、私が完成させよう。


あ、3つじゃ足りないなあ。1200文字では到底書きつくせない歴史が蘇ってきた。

私あんなに泣き虫だったのに、いま大都会・東京で一人暮らしをしている。いろんな初めてを乗り越えて、節目に立ち会って、別れを乗り越えている。いろんな歴史が鶴田桃子を作っているし、歴史が見えてくるくらい生きたんだなあ。

当たり前のように明日がやってくる今日は、なんて豊かで有難いものであろうか。明日、親に電話しよう。お腹が空いたから、バナナタルトを食べよう。綺麗に、ひとかけらも残さずに。そして、そのクリームを隈なく掬うように、忘れていた記憶を思い出して反芻しよう。お皿に残ったクリームを、完璧に掬い取ることはできないけど。その残ったクリームも、おまえをつくっていたものだから。

その中に今日を見つけられるように、生きる。

金曜日が待ちどおしい。